※画像は神社でのお祓いですが、私が行ったのはお寺ですので、あくまでもイメージです。
私は今年は前厄だ。というと、完全に年バレしてしまうのだが。
今まで、「厄年」を強く意識したことはなかった。
多分、「今年厄年か~」くらいは思ったかもしれないが、厄払いはしたことがなかった。
ところが、今年は「前厄」であることに少しおびえ、初詣で厄払いも済ませてきた。
というのも、最近は、いつも体のどこかしらが痛かったり、体力の衰えを感じたり、健康診断に引っかかったり、良縁に恵まれなかったり(最近だけの話ではない)、孤独を感じたり…負の感情を抱くことが多く、弱気になっていたようだ。
だから、いつになく「厄年(前厄)」であることに敏感になり、親に言ってみたら、家族6人中4人が厄年であったため、初詣に行ってみんな揃って厄払いされてきたのだ。
お堂はかなり密でこのご時世なので若干不安にはなったものの、仏のご加護の下に行われているのだからコロナ蔓延なんてあるわけがないという謎の信仰心(多分だめなやつ)を発揮して、心落ち着けて読経を聞いた。
読経は燃え盛る炎の前で行われる。暑そうだ。
読経の中で、名前や年齢を読み上げていただけるのだが、年齢はもちろん数え年である。
数え年は今の時点だと、いつもの満年齢+2歳なので、聞いたときにギクッとした。
自分はいつこんなに歳をとってしまったのか…がっかりだ。
韓国留学中にも同じような経験があった。韓国は数え年で年齢を言うのがデフォである。しかも、年齢で相手の呼び方やタメ口にするしないが変わるため、自己紹介では必ずと言っていいほど年齢を言う。
そのたび、数えで年齢を言わなければならず、毎回なんだかがっかりした気分になっていた。
そのころはまだ若かったので今ほどえぐられはしなかったわけだが。
まあ年齢のことは置いておいて…
自分の名前が読み上げられたら、前のさい銭箱に進み、祈願をして退出する。
その後、別の窓口でお札をもらって終了である。
そのお札は自分の(一人暮らしの)家に持って帰ってきて、適当に立てかけてある。
自分的にはベストポジションに置いたと思っているが、ちょっと微妙かもしれない。
お札が入っていた袋には毎日お水をお供えしろと書いてあったが、まだ一度もお水をお供えしていない。
だ、大丈夫だよね?仏様怒ったりしないよね?
お札を手に入れ、また違う懸念材料が生まれてしまった。
ありがたい気持ちを忘れぬよう、時々お札に向かってお祈りしようと思う。(←え)
そして忘れてはいけないのが法多山名物「厄除けだんご」。
これも家族みんなで、さらには親戚も一緒においしくいただいた。
厄払い、厄除けはこれで完璧(なはず)だ。
何はともあれ、とりあえず今年はこれで安泰だろう。
八割がた気持ちの問題だと思うので、今年一年心安らかに過ごせる。
ということで、人生初厄払いの話でした。