今回読んだ本は凪良ゆうさんの『わたしの美しい庭』です。
2020年の本屋大賞に選ばれた『流浪の月』の作者 凪良ゆうさんの最新作です。
《あらすじ》(知りたくない方はお戻りください!)
小学生の百音と統理はふたり暮らし。朝になると同じマンションに住む路有が遊びにきて、三人でご飯を食べる。 百音と統理は血がつながっていない。その生活を“変わっている”という人もいるけれど、日々楽しく過ごしている。 三人が住むマンションの屋上。そこには小さな神社があり、統理が管理をしている。 地元の人からは『屋上神社』とか『縁切りさん』と気安く呼ばれていて、断ち物の神さまが祀られている。 悪癖、気鬱となる悪いご縁、すべてを断ち切ってくれるといい、“いろんなもの”が心に絡んでしまった人がやってくるが――
(Amazonより引用)
凪良ゆうは同性愛(特にゲイ)やロリコンなど社会的マイノリティ、社会の中で肩身狭く生きている人々について描くことが多いですよね。
この小説では、ゲイとしてからっとオープンに自分のやりたいことをしながら生きる男、高校生の時に事故で亡くした彼氏のことを今でも忘れられないでいるアラフォーの女、兄を事故で失い親の期待を一身に背負って生きてきたけれど仕事に忙殺され鬱にかかり恋人からも別れを切り出される男 など
が描かれていて、過去や現在に様々な悩み葛藤を抱いてもがきながら懸命に生きる人たちの話です。
ここからは読んだ人にしかわからない(読んだ人にもよくわからないかもしれない)まとまりのない感想です。
それぞれ縁切り神社に縁を切りたい人やものやことを言って祈るのですが、
それらを読んでいると、
人っていうのはいろいろなことに縛られて生きているんだな~
その中でがんじがらめになって生きづらくなることもあるんだな~
その自分の足かせになっているようなものに気づいていないだけなのかもな~
自分を奮い立たせるモチベーションになると思っていたものが実は自分を動けなくさせてしまっているのかもな~
ちょっと吹っ切ればもっと思い切りよくなれたり自由になれたりいい方向に向かっていくのかもな~
と思いました。
特に現代人を縛っていると思ったのが、自分の周りの人々(家族や近所の人、同僚や上司など)からの目。
社会的に見て正解か間違いかという価値観ともいえるかな。
例えば、
・適齢期が来たらそれなりの相手と結婚して子供を授かって家庭を築いていくべきだ
・ゲイは恥ずかしい、マイノリティーだ
・本当の親とじゃないと幸せな親子になれない
・男たるもの名のある会社に勤めて少し無理を押してでもがむしゃらに働くべき。30代なんて一番脂が乗っているとき。
その社会の当たり前から外れないようにしなければ!
外れてしまった自分はダメなんだ…
外れたら戻らなければ!
そんな考えに縛られているのかなと。
「周りがそういう見方をしてくる」
ということももちろんあるんだけど、
もしも周りがなんとも思っていなくても
「自分で自分のことを、社会からきっとこう見られていると決めつけてしまう」という一種の被害妄想的な性質のものもあるのかなと思ってみたり。
この小説に関して言えば、被害妄想的なものよりも周りからの目という実体を伴っているほうが多いのだけど。
私も実際、「そろそろいい人見つけたほうがいいんじゃない」とか、「今はよくても老後のふとした時に寂しくなるよ」とか、「(仕事に関して)まだこれからが長い人にがんばってもらわなきゃ」とか、折に触れて言われる。
”こうあるべきだよね”という考えに基づいた、周りの人々の発言にうんざりすることが少なくない。
でもよく考えてみると、その発言をうじうじ気にするのは私自身だし、その考えを押し付けるともとれるけど、その人たちと同じような”こうあるべき”という価値観が自分の中にもあるから、余計にうんざりするのかなとも思う。
ただ、すべてのことから解き放たれて何にも縛られずに生きていくというのは不可能なのかもしれない。
あるいは、もしすべてのことから自由になれてもその自由さに不安を感じるようになってその意味で精神的ゆとりがなくなるなんてこともあるかもしれない。
人間生きるのは大変。
まったくまとまらないけど終わり。