車を買い替えようと思い立って、あれやこれやした話は前回書いた。
買い替え活動をする中で、気づいたことを書いてみたいと思う。
題名の通りであるが、
(とはいえ題名が意味不明なのはご愛嬌←)
車の種類をちょっと覚えた。
は?と思うかもしれない。
しかし、車を買い替えようと思っていろいろ調べる前までは、車種の名前を言われてもどんな車かまったく頭に浮かばないような人間であった。
車に興味がないと言っても、度を越えている。(という自覚はあった)
しかし、調べ始めたら、
あ、あれはラパンだ!
あれはジムニーだ!
あれはデミオだ!
と、
今までは全部ひっくるめて“車”としてしか認識していなかったモノたちが、それぞれの名前をもって見えるようになったのである。
「物が先か、言葉(名づけ)が先か」
という問題はよく評論のテーマとしても見かけたりするが、
普通なら当然、ものが先にあって、それを○○と呼ぼう!となるはずだ。
だから物が先だ!と考えるだろう。
しかし、物が存在するだけでは私たちはそれを、ここに○○があるという風には認識できないのである。
言葉がない(名付けられていない)状態では、混沌であり、そこの世界に切れ目がない。
その物が物として目につかないのである。
先天的に視覚障害がある(ほぼ全盲の)人がある程度成長してから、手術をうけて初めて世界を見ると、「あ、○○がある、○○がきれい、何色の○○」ということを認識できず、混沌とした一つながりの切れ目のない世界に見える(認識される)という話をどこかで読んだことがある。
言葉(名前)がわかってこそ、そこに物が“ある”のである。
何をぐちゃぐちゃ言っているのだと思うかもしれないが、
まさに私が認識していた車の世界は混沌としていた。
かろうじて認識していたのは、普通の車かトラックか。
大きめの車か小さめの車か。
くらいでる。
少々大げさではあるが、本当に車について知らなかったのだ。
しかし、調べてみて、この車は○○っていう車種なんだ!という経験を重ねたことによって、私の車に対する混沌とした世界に切れ目が入ったのである。
ついでなので、余分にもう少し考えてみると、
語学でもそうだ。
韓国語を勉強しているのだが、日常会話くらいはできるようになったなと思うようになったころ、韓国語の授業で耳にしたことのない文法を習った。
そのときは、「こんな文法習っても、聞いたことないし、使う場面なさそうだな~思えなきゃダメ?」などと思っていた。
しかし、後日韓国ドラマを見ていたら、画面の中で俳優さんがまさにその文法を使ったセリフを発していたのである。
しかも特殊な設定のドラマでも、めちゃめちゃかしこまった場面でもなく、まさに“日常会話”的な場面である。
字幕なしでも結構理解できるようになった気でいたのだが、無意識的に知っている単語だけを耳が拾い、聞こえたセリフだけで頭の中でつなげて理解していたのだなと思った。
まだまだ聞き取れていない部分は多くあるだろうに、そこは混沌としてもやもやっとしていたがために、「ん?この単語どういう意味だ?初めて聞いたぞ」と思うこともなく、聞き流していたのである。
こういう経験は何回もある。
何かがわかるようになるというのは、混沌とした世界に切れ目を入れ、言葉(名前)を知っていくという作業の積み重ねなのだなとつくづく実感させられるのであった。
知らないほうがいいこともたくさんあるだろうけど、
何かを知りたい、極めたいと思ったときには、
「その分野に関してまだまだ混沌とした部分が多くある(むしろ自分が認識しているのは氷山の一角)のだ」
という意識を持つべきだなと思った。
なんてね。
車の話がこんなとこにまで来てしまった。
とはいえ、というか、だから、というべきか、
私はまだまだ車についてちょっっっっっとしか知らない。
車について詳しくなろうという意欲もそんなにないが、教養として必要最低限な知識くらい(それがどれくらいかわからないが)は、備えたいなと思うのである。