『本日は、お日柄もよく』原田マハ(徳間文庫)
の読後感である。
YouTuber(ポッドキャスト)がおすすめしてい、ミーハーである私はすぐさま図書館に探しに行った。
運よくみつかり、借りた。
スピーチについての話だと言っていたのを聞いて、
堅苦しいのではないか?
スピーチが題材っておもしろいのか?
とあまり期待していなかったが、読み始めてすぐに引き込まれた。
小説の冒頭にスピーチの極意が箇条書きで示されている。
詳しくは本を読んでほしいので引用して書くことはしないが、これまでのスピーチに対する認識が変わった。
というか、
これまで、もっぱら聞く専門で自分自身スピーチについて勉強することはなかったため、認識が変わるも何もないのだが、、、
それに加え、失礼なことに、スピーチを熱心に聞くということもあまりしていなかった。
なぜなら、スピーチは
話し手の自己満、
形式的な内容、
だらだらと間延びした内容
というイメージが強かったからだ。
それが、この本を読んで、これからスピーチを聞くときにも、自分がする側になった時にも考えることが多くなりそうだと思った。
まずはじまりの部分だが、
「ただいま紹介にあずかりました○○です。」
などと始めるのはナンセンスであるというものである。
確かに聞いている側からしたら、「わかってるわい!」とさっそく突っ込みたくなるし、時間と文字数の無駄である。
静かで落ち着いた、しかし、聞き手の心をぐっとつかむ一言で始めるべしということである。
式辞などでありがちな、時候の挨拶というのもいらない、もしくは必ずしも冒頭に形式的に入れる必要はないのかもと思わされた。
全体がふっと静まってから話始めるというのも、当たり前に思えてなかなかできない。
「自分のスピーチなんかだれも真剣に聞いていないだろう」、
「緊張するしさっさと終わらせよう」
と私なら考えてしまう。
「静かになる前に始めちゃおう」と極意とは真逆の思考である。
しかし、聞かせたいときには、静寂を待って始めるのは必須である。
全文を暗記するというのも当たり前なようでいてできていない。
べったりと読むというほどでなくても、カンペ的なメモは持っている場合が多い。
読むとどうしても棒読みになってしまい感情が入りにくい。
抑揚をつけて演じるように読むのはむしろ嘘っぽくなってしまうと思うが、
暗記して言葉を完全に自分のものにして聞かせるというのは
思っている以上に印象が違うのだと思う。
内容はエピソードや具体例を盛り込むこと。
これに関しては私も日常で感じることがある。
人の書いた文章を読んだり、添削したりということが時々あるが、全体の流れとしては「できる人」の文章だな悪くないなという印象を抱きつつも、まったく内容が胸に響かない文章にまあまあ出会う。
それらの文章の共通点は“具体性のなさ”である。
耳にいい、かっこつけた抽象的な言葉のオンパレードなのである。
これなら、思っていないことでも書けるし、誰でも書けるし、読み終わったところで「だから何?」という感想を持たれて終わりである。
具体的すぎるくらいの具体例を盛り込むことはかなり重要ポイントであると私も思う。
何を言っているのかがわかりやすいし、聞き手の心に届きやすいのだろう。
感動的に締めくくるというのも極意のうちであるが、
最後まで決して泣かないことというのもみそだと思った。
スピーカーの涙につられて泣いてしまうという場面もよく目にする光景である。
結婚式などではよく起こりがちだろう。
それはそれで「感動的だったね」、という感想になるのかもしれない。
しかし、話し手が泣いてしまった瞬間そのスピーチは聞かせる者・送る者という立場からたちまち転落し、“自己満”の言葉になってしまうような気がした。
聞いている私が涙するはずの場面で、読み手が先んじて泣き始めるとスピーチの世界から一気に現実に引き戻され感情が簡単に冷めてしまう。
なるほど、泣いてはいけないと明文化して示されると納得せざるをえない。
と、極意に反して具体性のない話をつらつらと書いてきてしまった。
この本を読んで、
スピーチとはこんなにも深いものだったのだと思うのと同時に、
言葉が持つ力は無限大だなと考えさせられた。
同じ内容でも、言葉の選び方や話す順序、話すときの表情や振る舞いによって
伝わり方がこんなにも違うのかとハッとさせられた。
人前で話すことは大の苦手であるが、スピーチ原稿を考えるのが楽しそうで、自分も書いて喋ってみたくなった。
と言いつつも、この先もスピーチをしなければならない機会が訪れないことを願うが、もしもの時にはこの話を思い出したい。
ただし、この極意に当てはめて人のスピーチを上から目線で評価することがないように気を付けようと思う。