前の記事に関連して、日本人の“休み”についていろいろと考えてみた。
日本人の多くは、夏休みに連休が取れるとなったときに、
「どこに行く?」「何する?」
と旅行の計画を立て始める。
スタイルはそれぞれだろうが、観光地別に検討し、“見どころ”が多いところ、遊ぶ場所があるところを選ぶ傾向が強いのではないだろうか。
期間としては1泊~3泊?
国内で1週間以上の旅行はなかなか計画されない。
金銭的にも、一人や二人旅ならまだしも、家族旅行ともなればかなり家計を圧迫することとなりストップがかかってしまうこともあるかもしれない。
例えば、夏のお盆の時期に1週間ほどの夏休みを取れた会社員で考えてみる。
さて、普段まとまった休みが取れない中でようやく捻出した1週間の夏休み。
そのうちの大イベント2泊3日の旅行。
こんなふうに組まれた旅行では、1分1秒も無駄にしたくない!という意識が強くなるのも当然だ。
だから、分刻みで観光地を回ったり、レジャー施設でくたくたになるまで遊んだりする。
そして2泊3日が終わって帰宅すると残りの休みをアクティブに過ごす元気がないくらいにくたくたになっている。
しかし、「連休を無駄にはできぬ!」と疲れた体に鞭打ってさらにお盆帰省をしたり、子供とプールに行ったりする。
“ただただくつろぐ”という日はあっても1日くらいか。
そして、連休が明けて出勤。
おもだるい体を引きずりながら、短かった割にはちゃんと夏休みボケしている頭でどうにかこうにか業務をこなしていく、そんな日々が始まる。
自分は家庭を持っているわけではないので、自分が親の立場での実体験はないのだが、
自分が子供だったころの記憶をたどってみると、
「夏休みは何かしなければ!」
という気持ちで過ごしていた気がするし、実際に毎日海に行ったりしていた。
それはそれでバカンスっぽい過ごし方と言えるかもしれない。
が、なかなか忙しく過ごしていた。
親はどんなだったかというと、
毎年夏休みに1回は旅行を計画してくれ、2泊くらいで家族旅行に出かけていた。
旅行中はいろいろな観光地を巡った。
休みだから旅行に行けるのだが、休んでいるという感覚はなく、むしろ肉体的にはいつもより疲れていた。
子供心には非日常の旅行体験は楽しかった。
親としても「夏休みじゃないと行けないしね!」と楽しんではいただろうが、
2泊だから、「なんとか楽しかったね!」で終わるのであって、
リゾート地にバカンスに1週間行っていいよと言われても、ノーサンキューと言ったに違いない。
特に子供連れの旅行は疲れるというイメージであるからだ。
上の例や私の体験は、あくまでも、そういう人“も”いるという話で書いているが、こんなふうな日本人は多いと思う。
または、まとまった休みが取れることになり、
「どこか行きたいな~」と思っているのだけれど、
休み前は日々の仕事に忙殺されて旅行などの計画を立てる暇がなく、
そう思っている間に、
いつの間にか連休に入り、
いつの間にか連休が終わっている。
そして、何もしないでほとんど引きこもり状態で過ごした夏休みを後悔しながら、また仕事の日々が始まる。
こんなふうに書いていたら、なんだか泣けてきた。
無駄に過ごしてしまったことを悔いる例はまさに前の職場時代の私だからだ。
何もしなかったことをかわいそうだというのではない。
「何もしないで体を存分に休ませることができた。」
「なんなら韓国ドラマを好きなだけ見ながらだらだらして、至福の時間を過ごせた。」
と前向きに捉えることができないことがかわいそうなのだ。
「夏は暑いし、こんなもんだよね。」
「じゃあ、年末年始の休みはどこか行っちゃおうかな(寒いけど)」
というふうに、休みに休んだ夏休みはそれはそれで最高で、次の冬休みを楽しみにしていく。
それでいいではないか。
なぜかそんな考え方をするのがとても難しいことになってきてしまった。
話が広がってしまったが、日本人は“休みの日”に“休む”ということができなくなってしまっているということだ。
旅行に行ってアクティブに観光したりするのも好きだし、それはそれでいい。
私もそういう旅行が好きだ。
しかし、前の記事に書いたように、“何もしないことが基本”というバカンスも味わってみたい。
そのバカンスのために仕事をがんばり、充実した“休み”をすごす。
そして、また仕事をがんばる。
“何もしない”時間でぼーっとしながら、自分と向き合う時間を持つことは、心にゆとりを持たせ、“豊かさ”につながっていくような気がする。
勤勉さがウリの日本人は休みの日に“何かする”ことにも一生懸命だ。
ゆるゆると過ごしつつも、非日常に身を置いてリフレッシュできる、そんな休みっていいな。