先日最終回を迎えた韓国ドラマ「私の解放日誌」は心動かされるセリフばかりだ。
ちょっと前にもこのドラマのセリフを引用して記事を書いた。
また、はっとさせられるセリフがあった。
ある人を好きな理由も、ある人を憎いと思う理由も、
その人を好きになるか、憎むかを決めてから、その後で後付けしているのだと。
こうだから好き。
こうだから憎い。
ではない。
好き。例えば、こういうところが。
憎い。こうこうこうだから。
だと。
恋愛や結婚生活は加点方式じゃないとうまくいかないとよくいう。
嫌なところが見えだすと、その人の言動が次々に気に障るようになっていくという。
これは一見、
好きな理由がたくさんあってから、「好きだ」と認識するのではなく、
嫌なところがたくさん見えてしまったから、嫌いになった、
ということではなくて、
なんかよくわからないけど「好き」だから、いいところが見えるようになって、好きの理由が加算されていくし、
なんかよくわからないけど「憎い」から、嫌なところにばかり目が行って、憎いと思う理由が加算されていく
ということなのかな、と思った。
さらに、ドラマの中では、好きになったり、仲を深めようとする過程で、
怒ったり、悲しんだり、恥ずかしい思いをしたり、裏切られた気持ちになったり、
という苦しい思いを登場人物たちは経験している。
それを見て思った。
人と思い合うということはなんてめんどくさいのだろうと。
私は人をちゃんと好きになったことがないと何回か書いてきたが、
結局はめんどくさがりなのだ。
ただのめんどくさがりとは違う。
“めんどくさがり 兼 臆病者 兼 プライド高い”
である。
人と思い合う過程で苦しい思いをすることは避けられないと思う。
(例外はあるかもしれないが)
すると、自己防衛本能が働いてしまう。
自分が思いを寄せても相手が答えてくれなかったらどうしよう。
自分は正直に思いをぶつけてもスルーされたり、重いと思われたらつらいな。
こういう自分の姿を相手や周りの人はどう見るだろう。
付き合った後別れたら寂しい思いをするんだろうな。
とか、ネガティブな想像は止まらない。
最初の話つながるが、
私は人を好きになったことはないが、好きになりかけたことはある。
この人のこと好きかも、と思うと同時に上に書いたようなネガティブな感情で頭が埋め尽くされていく。
すると、
「いや、でもそんないい人じゃないか。そういえば、あの時の行動は残念だったし、なんとなく自分とは合わない気がする。それに、あのときもちょっと残念だったな」
と、
好きになることをやめよう(=憎いと思うことに決める)と決めて、憎む(嫌いな)理由を次々と乗せていくのだ。
まさにドラマで語られていた通りだ。
このドラマをみてやっぱりめんどくさいと思ってしまうが、
自分の気持ちに素直になって好きだと思ったらちゃんと好きな理由を積み上げていったり、みじめな姿をさらけ出して、もがきながら、思いを深め合っていくというのは素敵だなと思った。
なんてね。